今週のアクタージュは「フツー」の本質を語ります
おはようございます、あれよこれよというまに土曜日になってしまった田中聖斗です。
皆さんいかがお過ごしでしょうか?
今週のアクタージュは、高校生編のクライマックスです。
ちなみに、アクタージュ至上、もっとも熱かった、舞台「銀河鉄道の夜」編が収まったコミックスが5月2日に出るそうですよ!!
※20.1.7 引用を適正な量にて内容も若干修正しました
(以下ネタバレあり)
scene.61 そういう普通
前回に引き続いて、野球部の期待の星だったのに故障して全てをなくしたリョーマに、そうなったらオマエはどうするんだ? そんな自分を想像できるのか?
と問いかけられた主人公 夜凪景。
しかし夜凪は、いやが応にも他人と関わる上、想像力が必要な役者になり、これまでまったく興味がなかった「他人」に興味を持つこと、他人の視点になって考えること(自分の視点で他人になって、エキストラのくせに跳び蹴りをかますのではなく)を学びました。
なによりも、彼女がこの映研に入って気づかされた、「もう一人の自分」の存在(というか可能性)を、彼女が主演の映画を通じて語ります。
さあ、どんな映画になっているんでしょうという所からいきなりの暗転。
映し出されたのは、まさかのプライベート動画でした。
画角も横長から縦長になり、いかにも映研が作りそうな「映画っぽい」作品からの急な変化に戸惑う観客たち(学生)。
しかし、当の映研メンバーは、そんなことよりも、一人の女子高生である夜凪が、同級生として自分たちと向き合おうとすることを受け入れ、まさにそのことが、吉岡が、自身があたためていた脚本を捨てて、今、新たな作品にしておくべきだという選択をした理由なのでしょう。
スクリーンに映し出されるのは、孤独であることに何も感じず、孤独なまま生きることが当たり前だと思っていた「昔の自分」から、高校生として、社会の一員として、周りの人間たちと接触をして、その中で「当たり前」にしていくことが描かれていきます。
映画監督とか作家とかマンガ家とか、そういった創作で生きていこうとする人間は、ついつい他者との距離を置きたがる傾向のある人もいます(私もそうですが)。
でも、人間は誰とも接せずに生きていくことは不可能です。
私が子どもの時住んでいた街では、毎日のようにホームレスを見ていましたが、ホームレスにも社会性のある人とそうでない人がいて、社会性がない人、つまり孤独な人は、完全に精神が病んで、ずーっと座ってブツブツと独り言を言っていました。
でも、社会性のあるホームレスは、昼間っからホームレス仲間と、お湯を沸かしてコーヒーを飲んだりしていたのです。
何が言いたいかというと、人は、どんな状況であろうと、孤独になろうとすればすぐなれるのですが、みたいな軽い意味ではなく、本当の意味での孤独になってしまうことは危険だということです。
たとえばそれが役者の場合、役に入り込みすぎて、完全に孤独になってしまうことで、自身の感情を他の人とシェアしなくなり(正確にはできなくなり)、今の自分は、自分なのか役なのかという境界線がなくなってしまって、役者として終わってしまう、というようなことが起こるのでしょう。
それがきっと、本作のこれまでで語られてきた、アキラくんのお母さんが「役者として潰れた」話でしょうし、そうならないための、事務所の社長でもある黒山監督の対策が「夜凪を演技から離して高校に通わせる」という選択だったのでしょう。
独学で「メソッド演技」を極め、自分の感情をまるで機械のように簡単に出し入れすることができるようになり、自分の妹にすら「役者さんじゃないなら怖い」と言われた夜凪。
それは、役者としての圧倒的才能があり、一見、役者としての輝かしい未来があるように思えるかもしれませんが、だからこそ、そのままでいると、天知のような、そんな才能を利用しようとする人間に食い物にされてしまう恐れもあります。
だからこそ、夜凪自身がそれに打ち克つ強さ・・・というよりも、自分の中の「芯」みたいなものをしっかり持つことが大切です。
「役者しかない自分」じゃなく、「役者じゃなくても生きていける自分」があることを。
「きっと私たちは何にだってなれるんだわ」
「だって私がお芝居と出会ったのも偶然だったから」
夜凪はこの経験を通じて、人として一歩成長しました。
自分にはいかんともしがたいものに導かれてその道を歩かされるのではなく、それもあくまでも自分の人生の「選択」の一つなのだと受け入れて進むこと。だから、役者じゃなくても、自分は生きていけるのだと。
実際に本当にそうなのかはわかりません。
でも、女子高生である夜凪が出す答えとしては、間違っていないと思います。
世の中には、その選択に自信を持っている人ばかりではありません。
たとえば、路上でギターを片手に、「自分にはこれしかない!」と、いつまでも売れないミュージシャンを続ける人もいます。
「あきらめない限り負けない」という、多くの成功者がいう言葉を信じて頑張るのも、間違いではないでしょう。
でも、そんな人生では、いつ成功するかわからないし、何より、自分自身が息苦しくなってしまうこともある。そしてそんな人の歌が、他の人を幸せにできるだろうか??・・・という疑問が湧く人がいても不思議ではありません。
「○○じゃなきゃいけない」
これは、ある種の願望であり、夢に向かうエネルギーになる時もあれば、それがために自分の生き方が制限されてしまうこともあります。夢があるからこそ、夢が広がらないし、夢にたどり着けない。
また逆に、成功したかのように見えていても「○○じゃなきゃいけない」というプレッシャーに潰されて、その世界から消える人、酒やクスリに手を出す人もいます。
何が正解かなんてわかりません。
でも、ひとつだけ確実に言えることは、自分が「これをやってよかった」と思う行動を取ることです。
「がんばるもの」が何もないと思っていた自分(あさひな)が、ほんのちょっとのわずかな期間ではあったけれども、仲間たちと協力して、一つの物を作り上げた。
そしてその中に確実に自分がいることを証明してくれるエンドロール。
何もない人生から、ちょっとだけ誇らしげな自分を見つける瞬間なのでしょう。
案外、こういった子の方が、その時の感動が忘れられなくて、どっぷりこの世界に浸かってしまうようになるのかもしれませんね。大学に入って演劇部に入ったり、映画関係の仕事をしたり。でも、絶対に問題を起こさない。
自分以外のものになろうとはしないから。
きっと、そんな人たちとの接点がある作者が書いたんだろうなという、地味ですがホッとするシーンです。脇役にもそれぞれの人生があって、それぞれの、その人たちなりの未来がある。
それが、フツーってこと。ということなのでしょう。
結果、勝手に後者に映画を上映した映研は全員、停学処分になりましたが、夜凪は自分で自分を言い聞かせます。
自分は変わってる。
他とちがう。
そういうことを考えるよりも、他の人も自分と同じくみな、変わってる。
それこそが、役者という仕事に入り込みすぎず、役者の演じる幅を広げてくれることでもあるのでしょう。
黒山は夜凪に改めて問います。
夜凪は、(美人な顔で)自分の人生はポジティブな意味で「これしかない」という選択をします。
ネガティブな意味ではなく。
それもこれも、この、短い(ホントに短くね?)高校生編で得た、役者じゃない人生を歩けるという体験、想像、そういったものがあったからでしょう。
ちなみに、他の人に迎合しない夜凪は、時折本質にすっとたどり着くのですが、今回も、野球に見捨てられたリョーマの卑屈な感情に対して、感情移入しすぎることはなく、人との距離感があるからこそ言える言葉でリョーマを救います。
先生に怒られるのを覚悟して、勝手に上映会をしかけたリョーマ。
それだけで十分凄いじゃん?
そういう夜凪の気持ちは、こじらせてしまっていたリョーマには新鮮に届きます。
情熱を注げば注ぐほど、それに裏切られたとき、「自分のしたことが無意味」としがちですが、そんなことはないのだと。
いろんなキャラが救われるのが、この、『アクタージュ』の読後感の良さです。
今週の夜凪顔
今週は、停学を食らって、フツーの女子高生のように「トホホ」な顔をしている顔です。
「停学なんてフツーよ!」というのが、子どもの開き直りっぽくて人間らしい感情でした。これからますますいい演技ができるようになるでしょう!
(出典 週刊少年ジャンプ2019年20号 『アクタージュ』scene.61)