先々週のアクタージュは玄人と素人の両方を意識した演出論でした
そろそろ更新ペースがヤバいので、加速して書いている田中聖斗です。
※20.1.7 引用を適正な量にて内容も若干修正しました
(以下ネタバレ)
scene73. オーラ
悪天候のせいで約束の待ち合わせ場所に間に合わなかった夜凪が、ついに空港に到着。
得意のダッシュで出国ゲートまで走り、その先にいたのは、いるはずのない、ダブル主演でライバルとなる百城千世子と、助演の明神阿良也でした。
人だかりに囲まれて見えないはずの王賀美陸たちを見つけた夜凪に驚きますが、それはさておき、王賀美vs千世子&阿良也という構図でやっと「対立軸」ができるのに、ここに夜凪なんか入っていったら王賀美と夜凪のコンビが、千世子たちを圧倒してしまうんじゃないかという不安を感じてもしまいます。
それくらい、王賀美の存在感がハンパない。
身長が王賀美の方がデカいというのもあるでしょうが、アゴの角度ですよね。
あきらかに王賀美の方が阿良也を見下しているのがわかる横構図です。
「上から目線」というのは、基本的に正面下からのアングルで描くのが一般的。
でもこの場合、あくまでも夜凪は王賀美に認められていない「部外者」だから、そこには入れず、横からそれを見ている関係性になります。
ただもうそれだけで、王賀美の持つ「キャラパワー」に夜凪がプラスになったらどうなっちゃうの? というドキドキ感と、本当に王賀美に認められるようになるの? というハラハラ感の両方が、次のステージに行くキッカケとなるのが今回のお話のメイン。
プロデューサーの天知によると、「足止め」のために二人を呼んだということですが、彼らが「友情パワー」として、王賀美を引き留めたのはもちろん、千世子たち自身も、自分が演じる舞台で自分の力を見せるためにこの舞台を成功させたいという気持ちを表しているのはあるでしょう。
ただ、単に「足止め」のために登場したわけではなく、王賀美という「高い壁」をより表現するために仕込まれた演出のようにも感じます。
だって、
二人じゃないと足止めにならないとわかっているから、二人で来たんです。
それぐらい、王賀美というのは、彼らにとっても、夜凪にとっても「高い壁」「強敵」ということなのです。
そんな中、そんな輪の中には入れない、売れてないけど頑張る普通の役者 武光は、その、普通人としての感性で、夜凪のことを普通に心配します。
相変わらずいいヤツです。
こういったことは、いつもそばにいた星アキラもするでしょう(今後登場するであろう、ニューアキラはしないと思いますが)。
これが例えば王賀美や千世子、阿良也が、武光のように心配するか?といったら、多分しないでしょう。
武光からしたら夜凪は言わば「才能は羨ましいが、ほっとけない妹ポジション」というのもあるのでしょうが、恐らく王賀美たちは「びしょ濡れ」の状態を心配するよりも、それで何をどう表現するの?という風に思うのではないでしょうか?
たとえるなら、吉本問題について吉本にコメントを求められた池乃めだかが、「吉本に希望は?」と聴かれたところ、「背が高くなる薬を開発してくれ」と、混沌とする問題を笑いに変えていましたが、こんな感じでどんなことも笑いに変える、みたいなことができるのが、「ひな壇芸人」と違う、一流の、真のお笑い芸人みたいな。
そういう意味で、この舞台で武光は本当に見事に単なる脇役に終わってしまうのではないか?
という不安もありますが、常識人も必要だし、彼自身の成長もきっと描かれるはず。
とりあえずここでは、そんな普通人 武光のごくごく普通のリアクションを受け、高校生活をしながら「役者しかない人生」ではない、普通の人として生きられる人生を選べることに気づいた夜凪は、武光の善意を拒絶することなく、素直に感謝を伝え、それでも自分がやっていきたい「役者」としてできる、自分にとってのベストを尽くすと宣言します。
これって結構地味ですけど重要なシーンです。
というのも、夜凪は「武光くんや皆のおかげでもう一度芝居ができる」って言ってるじゃないですか。
これって、千世子からは中々出てこないセリフだと思うんです。
もちろんそれは、千世子が役者としての自分に自負があるというのはもちろんですけど、夜凪のメソッド演技を自分のものをするために、吉野家で生卵を丸呑みしたりしたってくらい、千世子は必死を通り越して、言わば狂気に近い形で演技の質を高めようとしているわけです。
それは、役者としての自分の育ての親である星アリサと決別したところにも顕れていますよね。
阿良也も、自身を役者として導いてくれた演出家 巌が死に、「死」という演技の深淵にはまり込んでしまった時に、巌の思いを託した夜凪に救われたっていうこともありましたが、二人に共通しているのは、役者という仕事を極める上である部分で必要悪とされる「狂気」というものにブレーキがないこと。
それだけに若くして役者として成功しているということもあるのですが・・・これは、主人公サイドの夜凪とはまた違った、でも夜凪がこの作品の根源的なテーマとして、「通ると危ないぞ」とされている道でもあるんですよね。
だからこそ、その「危険な道」を通らないために、周りの人が夜凪を導いていくわけですが、こんな普通人の武光の、普通のリアクションでも、それは夜凪にとっては大事なことだっていうことを表した、地味だけど重要なシーンだなと個人的には思うのです。違ったらどうしようと思ったりもしますが。
さて、そんな「進化した夜凪」が、王賀美の前で見せるのは、自身の成長した「演技」。
ジャンプは、強いヤツと会敵し、主人公が敗れ去ってしまうシーンが数々あります。
『ドラゴンボール』で桃白白に倒された孫悟空、『スラムダンク』で仙道にやられる桜木と流川、『ワンピース』で毎回ビッグネームに敗れるルフィなど、挙げればキリがありません。でも、そこであきらめず、彼らを導く師となる存在がいて、彼らは過去の自分を超え、それを表現し、打ち克つのです。
今回のアクタージュでも、そのジャンプ式「王道ストーリー」、というか、古来より神話やヒット作品に見られた展開、「ヒーローズ・ジャーニー」と呼ばれる、鉄板ストーリーテリングがいかんなく発揮されていくわけです(ちなみにこの考えは、ジョージ・ルーカスが『千の顔をもつ英雄』という著から『スターウォーズ』を着想したという逸話から生まれたものです)。
修行の成果を見せるためには、王賀美に対して、成長した自分の姿を見せるには、口だけじゃダメ。
あの読み合わせの時、自分が「出来なかった」演技を、そのまま見せることが必要です。
だから夜凪は、空港で人々が見ている中、ゾーンに入ります。
そして、夜凪が差し出した手は、自身の演じる、神である羅刹女が、不遜な輩である孫悟空を「当然のごとく」拒絶する手でもあり、王賀美陸という役者の、圧倒的な存在感を跳ね返す手でもあります。
そう、共演とはいえ、あくまでも夜凪と王賀美は、作品の中では相対する存在。
そこでは、ガチンコな対立関係を表現しなければなりません。
それを踏まえてか、空港で皆が見ている中で、王賀美だけにわかるメッセージを演技という形で表現し始める夜凪。それを見た王賀美の目には、夜凪の差し出した手に「神の力」が宿っているように映ったのです。
ここからは圧巻です。
そして、「神の力」を演じる中で起きた、偶然の落雷による停電。
しかしそれが、夜凪が引き起こしたように「感じさせる」演出であるのはもちろん、王賀美の目には早くから理解できた「神の演技」を、彼らを取り巻く、演技のことを大して理解していない芸能マスコミや一般大衆にもわかりやすく伝えるように、雷という「演出」を使って表現したのです。
このために、王賀美陸を空港のVIPルームではなく、注目を浴びるロビーにいさせたのでしょう。
夜凪を世界的に有名にした「新宿ガール」PVは、映像という証拠が世界的に広まる原因となりましたが、今回は、夜凪が演技を始めた時にたまたまピッタリと起きた事象を見たマスコミや、SNSにすぐ投稿するパンピーたちが、夜凪の演技と「人知を超えた何か」を関連付けて語りたくさせるギミックなのです。
これは、「観るもの」をリアルに想像できる人間が、さらにそれを作中の中でも再表現できるという、結構高度な技術です。
打ち切りマンガには、これがないモノが結構多いです。
この辺、『アクタージュ』は活きた教材といっても過言ではない。相当、表現術のことを勉強した人なのかなという気はします。
話を戻して、はたして、羽田空港が落雷一つでブラックアウトするのかは定かではありませんが、それくらい、「人知を超えた」存在を演じきった夜凪という存在を認めた王賀美は、それに応え、彼も周囲の目など気にすることなく演技を始める=共演中止をキャンセル、という展開になります。
ここからは演劇論のプロである、阿良也や千世子、山野上花子たちが、夜凪が引き起こした「事象」を解説していくのですが、それは本誌(もしくはその内発売される単行本)を見ていただくことにして、ここからやっと、舞台編が動いていくという大事なワンシーンになりました。
気になるのは、強すぎる王賀美に、それに対抗できるようになった夜凪。
これで、千世子と阿良也が、本当に太刀打ちできるのか?
実際、今回の最後は、半分負けを認めてしまっているような阿良也の〆でしたが、
「これはもう、世界組の黒山監督にスゴさを発揮してもらうしかない!」
という展開を期待させますが、せっかく夜凪のメソッド演技を自分ものにした千世子の、さらなる変化がどうなるのかも見物です。
さらに「狂気」に走るのか、それとも・・・
あくまでもこれは少年誌だし、この最後のページの千世子の夜凪を見る、妬みもなく本当に、一人の役者として「凄い」と思えるような目をしているところから、そんなダークな展開にはならないと思うのですが、だったらどうやって、王賀美&ニュー夜凪に立ち向かっていくのか?
そしてなぜ、「妬む」という感情をあまり持ち合わせていないような女子高生である夜凪が、自分の元を離れて女遊びばかりする牛魔王に怒り震える羅刹女の気持ちを演じられるのか?
そこの演技のベースがどこにあるかが謎なままですが、今後そこが出てくるのでしょうか?
今後の展開にさらに期待が持てますね!
(出典:週刊少年ジャンプ 2019年33号 『アクタージュ』scene73.「オーラ」)
はじめまして。
考察を興味深く読ませていただきました。
よく分析されていて、読んでよかったと感じました。
しかし、漫画の画像を掲載されている点が気になりました。
著作者の許可をもらった上で掲載されているのでしょうか?
無断掲載ではないのでしょうか?
「物書き」と自称されているのであれば、なおさら、
他人の作品の著作権も守り尊重すべきだと思いますが、
その辺りについてはいかがでしょうか?
はじめまして、コメントありがとうございます。読んでよかったというのは非常にありがたいお言葉で励みになります。
ご指摘ありがとうございます。
画像の掲載についてですが、他者の作品の掲載そのものについては、「転載」と「引用」という考え方があり、著作権法第23条にも「公表されたものは引用できる」という規定があります(ジャンプの漫画をスキャンして逮捕されたグループがいましたが、あれは、発売前=公表されていないから)。
当方の認識としても、漫画村やアフィリエイト目的のネタバレサイトのように作品そのものを「転載」しているのではなく、漫画そのものについての考察をするというのが主目的であり、「引用」に該当するものと考えています。
そして「引用」の場合は、主従がハッキリする必要があり、あくまでもこの場合考察文が「主」、引用元が「従」であり、それがハッキリとわかるようになっていれば使用に問題がなく、引用元への許可も必要ないというのが著作権法の枠組みになるかと思います。
また、許可という点でも、商業出版の場合は、その公益性という性格上、引用元に許可を取ったり、場合によってはお金を払ったりすることもありますが(漫画以外では両方ともしないのが一般的かと思いますが)、個人的なブログのことで掲載許可を取るというのは、現実的ではないのかなという気もします(作者が止めてと言っていればもちろん別ですが)。
とはいえ、では引用の「主従」はあっても、分量はどこまで良いのかという線引きは難しいというところがあって、法律上にも「何割」と規定があるわけではありませんし、そういう例を作るのも難しいと言われています。
ここでも、考察文の方が多い分量となっているのですが、画像を、どうしても考察を読んでいる方に説明する時に「必要」と判断して、書籍などで見る「漫画の引用」より多く使っている部分は否定できません。
その結果、元となる作品の内容をかなり「転載」していると言えるのではないか?という不安が生まれてしまうのも尤もかなとも思います。
正直なところ、いちいちキャプチャするのもめんどいので、文だけで済ませてもよいのですが、それはそれで、文章だけを読んでいる人がわかりづらかったり、作品の「絵・コマの魅力・表現力」を伝えきれなかったりするのも惜しい、というのもありますし、こういうのを見て「コミックスを買った」「ジャンプで読むようになった」と言う人もいるので、悩ましいところです。
とはいえ、客観的に見てるとやはり「載せすぎ」かなという気もしますので、誰が見ても「引用」と思える水準にする必要があるのかなという気もしますし、ここの読者のためと言うよりは、作者と出版元の権利が優先されるべきであるということを考えれば、画像を減らし、文章で魅力を語り、「気になったらジャンプを読んでね!」という風にする方が、作者や出版社のためになるかなとも思いました(ジャンプアプリであればバックナンバーを「購入」できますので)。
「引用」についての考え方は作家によって異なり、私の場合は物書きとして出版もしていますが、正当な引用であれば、引用が多くても、許可がなくても、世に出回るんならドンドンしてくれというスタンスというのもよくなかったかもしれませんね。
「法律的に問題ない」と「訴えられかねない」は別物ですし。
これからもアクタージュは応援していきたいと思いますので、ちょっと全部直していくのに時間がかかりますが、見直していきたいと思います。逆に、キャプチャがない分、書くのは楽になりそうですし・・・。
ご指摘ありがとうございました。
今後ともよろしくお願いいたします。