今週のジャンプは罪を憎んで人を憎まずでした
こんにちは、昨日のNHKのニュース9で、ヘイトスピーチをきっかけに80万人が殺されたという「ルワンダ大虐殺」が起きた日だということをやっていて、ダルビッシュ有でも知っていたのにそれを知らずのうのうと生きてきたことを恥じた田中聖斗です。
今週のジャンプ19号は、そんな大虐殺に対するアンチテーゼなのか、「罪を憎んで人を憎まず」な感じでした。
(以下ネタバレ)
ブラッククローバー
なんと言っても、新井浩文容疑者逮捕の事件から、自身が作者にお願いして誕生し,声優まで務めたキャラ「ライア」が作中で公開処刑されたかに見えたブラクロですが、先週、まだ息絶えていないライアが出てきて「まだ死なないんじゃね?」ということを匂わせていたのが、今週号でそれがさらに明確に!
回復魔法が使える王族 ミモザに、悪魔によって土手っ腹に空けられた穴を治癒されるライア。
こ、これは・・・・ライア(=新井浩文)死なないで頑張れよというメッセージか!? と思っていたら、作者のメッセージが立て続けに、ライアと同じ、人間を憎むエルフのリヒトにぶつけられます。
選ばれてなかろーが
望まれてなかろーが
許されてなかろーが
みっともなく最後まで踏ん張りやがれぇぇぇ――――!!!!
新井容疑者はこれを読んでるでしょうか?
読んでなかったらぜひ読んでほしいですね。「俳優として生きていきたい」と言っていた新井容疑者のことをきっとおもんばかって、「このクソバカヤローが!」と作者が叱咤激励しているようにも感じます(だってリヒトのことを許す・許さないなんて表現は作中でほぼないから)。
ピエール瀧容疑者のこともそうですが、世間は、法律で定められた「罰」とは別に、社会的制裁を加えたくなるものです。犯罪を犯した者は、それを一生背負っていくべきだと。
それの行き着く先が、罪を犯した父への葛藤を描いたマンガ『中卒労働者から始める高校生活』の主人公がトラウマになっている行き過ぎた「世間の目」であり、一般市民の憎悪を膨らませて行った、「ルワンダ大虐殺」のようなジェノサイドなワケです。
マンガ家を含む作家は、社会に対して、そういった危険性を物語の中で表現する人種ですが、そういう「作家としての良心」が感じられた回でした。
約束のネバーランド
ジェノサイドといえば、これまで散々鬼たちの「食用児(エサ)」として狙われてきた子どもたちが、ノーマンという天才を首領とした「鬼を一匹残らず殺す」ための反撃体制を作った展開になっている、約束のネバーランドです。
エマは、自分たちを助けてくれた鬼もいることで、その鬼たちを殺したくないのはもちろんだけど、それ以上に、何も知らない(鬼の)子どもたちなどを全部殺すことが、新たな憎しみの連鎖を生むことを危惧していたのです。
憎しみが生まれて偏見となり、それが過度になれば、「相手を殺すしかない」という憎悪に変わります。
「アウシュビッツはねつ造だ」とトチ狂ったことを平気で言える人が出てくるくらい、歴史から何も学ばず、自分の感情や思想の思うに任せ、ヘイトの嵐が渦巻き、「自分は被害を被らないから」と無意識に、そして安易に破滅への道を誘導するのが人間です。
ノーマンやレイと共に、スーパー天才児の一人であるエマは、子どもながらにそういったことを書物から学び、純粋な「綺麗事」としてだけでなく、フィクションなどを通じ、そういったことが厳然たる真理として横たわっていることがわかっているのかもしれません。
かたや、それはわかりつつも、それでも「今」自分の大切な人たちを守るために、心を鬼にして、鬼を駆逐することに邁進する決断をしたノーマン。
この考え方の違いが、よりドラマを重厚なものにしていくわけですが、(特殊とはいえ)子どもでもこれくらい考えるのですから、大人たちもしっかりと考えてほしいものです。
鬼滅の刃
同じ「鬼」が敵な鬼滅の刃。
先週からの前後編スピンオフでも、「憎しみ」について考えさせられます。
最強剣士 柱(はしら)の一人である冨岡義勇さんは、鬼に喰われて鬼になってしまった猟師を、本編でも同じ号に使われている肆ノ型 打ち潮で圧倒し、鬼を殺す方法、首をはねます。
鬼になってしまった猟師が、冨岡義勇さんに首をはねられた断末魔としてつぶやいたのは、視線の先に移った、娘への一言でした。
猟師として、生き物を殺したからには、その分も生きなければならないと教えた父。
それは、良心を失い鬼になっても変わらず、娘のことを思い続けたが故の、一言なのでしょう。「鬼そのものを憎む」というだけなら簡単です。でも、鬼は元々人間だったのです。
そして、その鬼によって大切な人を殺された人たちが、鬼を殺すために鬼殺隊に入り、冨岡さんや胡蝶さんのように修練を重ねて、柱になりました。だからこそ作中の戦いが単なる「殺し合い」じゃなく、ドラマになります。
これは当然ながら原作となる本編でも同じで、「鬼を殺す」という目的はありながらも、彼らが鬼になった経緯を描き、他者への思いやりが強い主人公 炭治郎との接触によって、彼らへの恨み辛みを晴らすのではなく、彼らが「救われる」姿を丹念に描き、カタルシスを与えてくれるのがこの作品の一つの魅力です。
今回も、敵方のトップ3(正確には4)の猗窩座(あかざ)は、炭治郎に弱点である首をはねられながらも、自分で首をくっつけるという荒技を敢行。
結果的に冨岡さんにそれは阻止され、首から上は灰になったものの、それでも体だけはなぜか動き続け、炭治郎をノックアウトします。
弱点である首をはねられる術を見いだし、それを成功させたのもつかの間、再び「どうやって倒せばいいんだ?」という絶望がやって来ます。冨岡さんの全力も無になるほどの回復力はそのままです。
猗窩座を動かしているのは、とにかく強さへの執着心。それは、敵である柱を鬼にスカウトすることにもつながります。強者こそ正義。
それが、首を失った猗窩座の体が追い求めている、ある種の呪縛なのでしょう。
スピンオフのように、普通の鬼は瞬殺する冨岡さん。
しかし、そんな冨岡さんすら圧倒する力を持つ猗窩座の前でも、冨岡さんはひるむことなく壁になります。
そしてそれは、猗窩座が人間だった頃の記憶をよみがえらせることになりました。
恨むべきは誰なのか?
一部をのぞき、鬼たちはいずれも悲しい過去を背負っていました。
恨みに身を任せ、鬼になった者も。
しかし、人を憎んで鬼になった者たちと、柱をはじめとする「鬼と戦う」ことを選んだ、炭治郎などの隊士たちとの決定的な差は、鬼になった人ではなく「鬼」という存在そのもの、つまり言い換えれば「憎しみの体現者」「罪の象徴」としての鬼を恨むことはあっても、鬼になった人そのものを恨む対象としてはいないのです。
鬼だけ駆逐すればいいのか?
それは作者からのメッセージでもあるのでしょう。
罪を憎んで人(になった鬼)を憎まず。
次号、猗窩座の鬼になったエピソードも注目です!!
ジモトがジャパン
偏見とは関係なさそうな、突きぬけギャグマンガ「ジモトがジャパン」。
今回は、我らが愛知県がテーマですが、なぜ、露出狂!?
・・・・露出狂が出て困っているということで、男衆が露出狂に対峙している時にカッ飛んできた主人公、我らがジャパン。
途中のダンスは無理矢理挿入した感が強いが、愛知県人にはなじみの深い「はだか祭」で、ふんどしがパラッと落ちて、露出に目覚めてしまった露出狂。
ちなみに「つけてみィそ――かけてみィそ――!!」は東海地方でしか売っていない、何にでも使える魔法の味噌です↓。CMがこんなテンションです。
鬼滅の刃よろしく露出狂という悪事に手を染めるキッカケを回想するシーンに無理矢理「愛知県」ネタをぶち込む強引極まり展開だが、我らがジャパンは、地元に戻れず東京で露出狂になった愛知県人に、「たとえオマエが地元を捨てても、地元はオマエを見捨てないぞ……!!」と、どっかで聞いたことのあるようなセリフで、都道府拳を炸裂させます。
手羽先・味噌煮込み・味噌カツ・スガキヤまで入れちゃって、わっしょいしていますが、こんな感じだと、次に「愛知県」ネタをやることはないのでしょうか?
それだと47話で終わらないか?
大丈夫か、それで?
妙な心配をしながら、「罪を憎んで人を憎まず」で終わったジャパンでした。
仕方あるまい
犯罪は 犯罪・・・だ
罪を犯した芸能人も、ぜひ今週号を読んで悔い改めていただきたいと思います。