報道のリトマス試験紙化についての考察

昨日、車で『バイキング』を見ていたら、大津市で幼児たちが車にはねられた事件の記者会見を取り上げていた。

その記者会見で、「なぜあの交差点を使ったのか?」「危険に対しての意識は?」など、保育園側の落ち度を探そうとするような質問する記者の質問には、おそらく多くの人がヘドが出るような感情になったと思う。バイキングの司会者の坂上忍も、それをストレートに表していた。

最近はクソどうでもいい小室圭問題ばかり採り上げている中で、久しぶりにバイキングらしい役割を果たしていたと思う。

 

保育園の運営会社としては、過剰な取材を防ぐために早めの記者会見をしたのだと思うが、努めて冷静に、極めて理性的に回答していたし、バイキングでも、元警察官の吉川さんが、現場は「保育園の道路向かいにある公園に行くために、近くにある信号がない横断歩道を使わず、信号がある交差点まで歩くようにしていた」など、現場をちゃんと取材した上でコメントしていたので、正直、「感情」や「落ち度の有無」を引き出そうとする記者会見よりよっぽど保育園の管理体制を理解できた。

こうやってちゃんとした現場取材をして記者会見に臨めば、あんな質問はしないだろう。
「ここはこうなっていましたが、こういう考えだったのでしょうか?」という聞き方ができたはずだ。それであれば、誰も不快になることはなかった。

それが実際には、
「地元の人も交通量が多いと思っていましたが、他にルートはなかったのでしょうか?」という聞き方になった。でも、普通に考えたら、子どもをたくさん預かっているマトモな商売なら、一番安全なルートを選ぶに決まっているはずだし、細心の配慮はするに決まっている。

 

客観性の勘違い

こういった質問をした記者たちは、そこさえも「疑う」ことが報道の仕事だと勘違いしていたように思う。

それだけ、世の中に平気でウソをつく人間や、保身の為にウソをつく人間が多いからだと思うが、だからこそ、安易に主観で片付けずに、地道な、そして本当の意味で客観的な取材が必要なはずだ。

でも、昨今の「自己責任論」の考え方に引っ張られた状態で地元住民に聞き込み取材した結果、「交通量が多い」とか「危険を感じたことがある」という言葉を引き出せたからそれに乗っけてしまおうというスケベ心を持って、記事になりやすいコメントを求めて質問をするから、こんなことになる。「普段から子どもたちを放置して歩かせていた」とかいう声があるならまだしも・・・実際には、Googleのストリートビューに、ちゃんとやっている姿が載っているくらいだったわけで。

バズプラスニュース | 役立つ情報、気になる...
【悲惨】大津の園児死傷事故の現場 / Google ストリートビューに園児らの姿が写る...
http://buzz-plus.com/article/2019/05/08/otsu-biwako-enji-jiko-news/
2019年5月8日(水曜日)午前中に起きた、あまりにも痛ましい大津市の園児死傷事故。車道で自動車と衝 …

だいたい、最近主流の「街の声」は客観でも何でもない主観の集まりでしかないのに、これを客観だと思い違いしているのが痛々しい。あんなのは、客観のように見せかけるための方便でしかないというのに・・・。

 

そもそも、保育園を作るのも、安全で理想的な環境に作れるところばかりではないし、そうして来たのは、経済を重視して、子どものことは後回しにしてきた大人たちがいるからだ。公園を潰してマンションにしようとしている所もある。そういった、客観的事実に対するセンスを、記者は持っているべきだ。

先のGoogleのストリートビューでも、交通量がそこそこありそうな道路なのに、歩道にガードレールがないのことに違和感を覚える。小学校であればガードレールを設置していたのではないか? 私立の保育園だから後回しにされてきたのではないか? 現場を取材したのであれば、そこをもっと突っ込むのが「正義」じゃないか?

 

恐らく、こういったことを言う記者は、取材対象としては見ていても、自身が子育てや保育に一切関わっていない人なんだろうし、そこに対しての何かしらの問題意識を持っていない人なのだろう。だからこそ、こういったバカな質問ができる。

本人は「客観性」を持っていると思うのかもしれないが、単なる傍観者として見ているから、トンチンカンな質問になるのだ

 

報道だけが発信者じゃない

もう一つこういった質問を生んだ理由としては、自分たちが「伝える側」であるという強い使命感を持つ考え方だ。

おそらく、端から見ると、「何コイツ聞いてんだ、常識をわきまえろよ」という質問をした記者も、報道するネタの材料を得るための、その場限りの質問をしたのだろう。人によっては、「こういう感じの被害者の悲痛な気持ちをあぶり出し、事故の原因になった加害者を責める記事を書こう」と考えていた人もいるかもしれない。

それは、報道する側の一種の使命感みたいなものがあるのだろう。あくまでも、報道するの。

 

実際、報道記者として、今回のことには難色を示すものの、気持ちがわからなくないというコメントをしている人もいたし、同調圧力が起こる理由を述べている人もいた。

 

確かに、報道の側も「すべてが正しいとは思わない」とか「節度は必要」とか「ルールを考えなきゃいけない」というのは昔からよく聞くが、結局、売上とか視聴率とか「数字」が優先されるものだから、なかなか本腰でやれているとも思えないし、やっても後追いになるのも自然なことなんだろう。

これはどんな業種も、起こりうる。不正問題なんて大概そうじゃないか?

 

報道マン個人としても、自身の「反省」や、他の記者の取材のあり方の「指摘」はしても、存在そのもの「否定」はできない・・・でも、記者は他の人にツッコむくせに、記者は誰からもツッコまれないわけだから、それが「おかしい!」と思う人が声を大にするのが今の世の中(というかネット社会)。
トランプ大統領はその最右翼だ。

ヒットラーの時のように、マスメディアを利用して人々をコントロールした苦い過去から、客観的に報道するという記者の「正義」が重視されているのだが、いつまでもそれじゃいけない、という時代にもなってきたということだろう。何せ、記者も、権力者は意識しないが売れるかどうかに意識が行ってるのだから・・・そこに正義を感じない人がいても不思議ではない。

もちろん、トランプ大統領の場合は、自分の客観性のためではなく、あくまでも正当性のために「全部フェイクニュースだ」と主張しているだけだから、それはそれで客観性に欠けるわけだが、それでもそちらを優先して信じる人がいる時代にもなった、ということを敏感に感じ取れるセンスが記者には必要になってきたし、今後、それはもっと加速していくだろう。

 

実際、嵐の休止会見の時の、リーダー大野に対する「無責任と言う人もいるんじゃないか?」という質問をした記者も、実名をつるし上げられていた。

他の人が聞けないことを聞くことで、本人像や考えがよく見えるというのもある。

嵐の件では、嵐のメンバーの結束の強さがよくわかったし、今回の件では、園長に質問をくり返すことで、泣き崩れる園長の気持ちは充分伝わったし、運営者の対応もキチンとしていたので、彼らの評価は上がったことだろう。

でも、反対の対応をしていたら当然バッシングが強くなるわけだから、それはあくまでも結果論だ(それに、園長が嘘泣きだという人もいるし・・・)。

 

記者会見では、価値の高いネタを得るために、エッジの効いた質問をしないといけないからしている、というのが一番強いだろう。
これは何も今回のことや、嵐のことだけではない。なんでもかんでも、単純に「イエスかノーか」「白か黒か」劇場型報道を支える、シンプルで力強いネタを探す世の中がある

とにかく、早く、わかりやすく、ハッキリとした形で伝えてほしい。

そして、それをどこかで求めている我々がいる。だから、行き過ぎの報道に対して非難はあっても、なくなることはない。

 

「リトマス試験紙」という比喩

そこで私が思うのは、皆さんも覚えているであろう、理科の実験で使った「リトマス試験紙」のことだ。

青のリトマス紙が赤になれば酸性
赤のリトマス紙が青になればアルカリ性

という、あれだ。

リトマス試験紙は、多くの人が、何かの変化を、劇的に目に見える形で調べることができるツール(試薬)として、初めて触れるものである。だから、比喩的に、「○○は、××に対するリトマス試験紙だ」のような表現がある。

 

こういった記者会見での、「それってどうなの?」という質問は、いわば、取材対象の人間性をあぶり出す「リトマス試験紙」と考えると、実に動機がわかりやすいと思う。

実際、女性問題で芸能活動を引退したり自粛することになった人たちは、突っ込んだ質問への対応がマズく、見事に「コイツ、ダメだわ」という部分があぶり出された。こういったこと、言わば成功体験があるから、記者会見での突っ込んだ質問がなくならないという現実があるのだと思う。犠牲者がいても、悲しむ人がいても、不快に思う人がいても、だ。

 

ただ、リトマス試験紙のことをもう一度思い出してほしい。

使っていたのは主に小学校、中学校までだったのではないだろうか?

 

リトマス紙というのは、どちらも、酸性かアルカリ性かの「片方」しか調べられない。
だからこそ、皆、「どっちが何色になるんだっけ?」とわからなくなるが、それでも使い続けるのは、理科的素養が育っていない子どもたちに、「酸性」「アルカリ性」という違うものを教える時には、リトマス紙の方がとても「わかりやすい変化」をするからというのがその理由だ。

ただ、リトマス紙は、強い酸性や強いアルカリ性じゃないと反応しないし、2枚ある片方しか反応しないし、デフォルトが中性だから、中和点もわからないという欠点がある。そのため中学校の理科からは、中和点だけでなく酸性やアルカリ性の度合い(pH濃度)も調べることができるBTB溶液が登場する(光合成で二酸化炭素が出ているか、などの実験だ)。

それだけ、中学生になったのだから、細かいところまで「理解」できるようになってくれ、わかりやすい」で終わるのは小学校で卒業してくれ、ということだ

 

これって、今の報道が置かれる環境に通じるものはないだろうか?

 

情報を深く考えない時代に

とにかくわかりやすくしてほしい。
どっちが正しいかをハッキリさせてほしい。

 

我々は、リトマス試験紙のようなハッキリとした変化が見える情報を、どこかで求めていないだろうか?

そして(商売として)報道する側も、そのニーズに応えるため、リトマス試験紙の色が変わるまで、突っ込んだ質問をする。ある町で意見を二分化する政策があったら、「どっち派」なのかを問うメディアが多い。その中間というのは、「あり得ない」のだ。

「青のリトマス紙を使う人なのか、赤のリトマス紙を使う人なのか、教えて下さい」と言わんばかりだ。

 

ただ、前述したとおり、リトマス試験紙は「強い」酸やアルカリじゃないと反応しない。

だから、過激な部分だけが報道されるし、行き過ぎた取材がまかり通る。

ひたすら追い続け、「なんで、赤リトマス紙が青色に変わらないんだ!?」と取材がエスカレートすることもある。

青リトマス紙を使えば反応があったかもしれないのに、それは使わず、ひたすら赤リトマス紙を使いつづける報道も多い。これは、警察の冤罪も似たところがある。見方が実に一面的なのだ。

 

小室圭問題も、明らかに金を貸した側に寄りすぎているから、真実が見えないのではないだろうか?

母子家庭で、母親の希望通りにキラキラした人生を歩むような、母親の影響力が強く育った20代前半の男が、「元婚約者」への対応を母親の言う通りに「貸し借り問題は終わってる」とすることの、何が不自然なのか? 多くの人が、こういった家庭環境にないからだろうが、小室家側から考えればわかる行動も、あれやこれやと理屈をつけて、「小室さんは不自然だ」とか言う。
なんなら、小室家側の「1万ずつなら返していけます」という提案を蹴って、「すぐ返してほしい」とメディアを通して語る元婚約者の側が「かわいそう」だと言う。

私個人としては、小林よりのりや高須院長と同様、「今さら金を返せという男の方が問題」というスタンスだが、それは少数派なので抹殺される。

それでは、真実が見えるはずもない。
小室家も、そう思っているに違いないのに・・・・(そう考える人が、皇族の相手としてふさわしいかは置いておくが)。

私は別に小室家の肩を持つわけじゃないが、「客観的に見る」ということは、偏らないことが前提のハズだ。だが、「皇族の相手にふさわしい相手であってほしい」という感情論をベースになるから、偏った報道が多くなる

 

そして、この件以外でも、あまりにも偏る意見の方が注目されるからか、そういう「リトマス試験紙」型の報道があまりにも多い。

「リトマス紙が青に変わらないからダメだ」
「リトマス紙が青に変わったからダメだ」

こんな、単純な論調が多くないだろうか?

 

リトマス試験紙から卒業を!

劇場型の政治を揶揄しながらも、それを見ながら「こいつらアホだ」と酒の肴にしたり、「争点がわからないから選挙に行かない」と政治に興味を持たなかったり、「深く理解する」ことを面倒がるのが今の世の中だ。

とにかくわかりやすく、わかりやすくないものはダメ。
どっちつかずはダメ。どっちなのか明確にしろ。

・・・そんな目に見えない空気感がある。

だから、メディアに出る側も、そこを考えないといけない。政治家もそうだ。だから、パフォーマンス的なものがより増えた。「卵が先か、鶏が先か」わからないが、相互に関係しているのはいうまでもない。

 

今、新聞やテレビなど「オールドメディア」はオワコンで、ネットやSNSが正しい情報を伝えられる、と考えるのも、リトマス試験紙的な偏った見方だと思う。深く考えることは時代遅れで、意味がないことだと考える人もいるようだ。

求められるのは、「面白い」「楽しそう」「かわいい」「マネしたい」「美味しそう」と、簡単にシェアできるものがいい。
ある人のコメントが「深い」と言いながら、一日二日よくよく吟味してシェアするのではなく、「深い」と感じた瞬間にシェアをする・・・とかもそうだろう。

とにかく簡単に、身近で、わかりやすくなっているもの、コンビニみたいな情報をありがたがる。

でも、それがいいこともある。

深く考えない分、感情に素直になるので、趣味で繋がれる人が増えるだろうし、本当に心温まるものはすぐにシェアされ、日の目を浴びる。これは、情報の発信がマスコミだけだった時代では考えられないことだろう。マスコミの中で、企画して、上層部がOKを出さなければ、いかに心温まるものでも、数字が取れないとか、どこかからの非難があるかもしれないとなると、報道されない。

そういった意味では、ネットメディア、SNSが、報道に対して風穴を開けたといっても過言ではないだろう。

 

しかし逆に、オールドメディア以上に偏っているのもこういったメディアの特徴だ。
実際、「調べてみました」的なアフィリエイトサイトが多数乱立しているが、客観的に調べると言うよりは、マスコミがやらないくらい主観に偏るものも珍しくない。リトマス試験紙の色をねつ造すらしてるんじゃないかぐらい、「疑惑」を「真実」のように書いているものもある。

わかりやすく、ハッキリ。

青色のリトマス試験紙だから、より赤く見えるものを情報として出す、みたいな。

でもそれは、「ニーズに応える」という、いわば商業主義的な考え方に他ならず、必然的に「客観的な事実」が見えなくなる。でも、「それでいい」という風潮が、一番怖い。

 

 

現実は、常にわかりやすく、スッキリとしていないものがほとんどである

だからこそ、カウンセラーは心理学を勉強し、作家は文学という手法でもって複雑な心の動きを映し出し、pH濃度を詳しく知りたい化学者や農家はリトマス紙よりpH計を使う。

 

報道される情報についても、我々はそれくらいの気概でもって付き合うのが、本当の正しい情報の付き合い方だと私は思う。

 

それができなくてもせめて、リトマス紙型の報道を「良しとしない」ことはしていきたいものだ。

だって、小学生レベルってことだからね。

 

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