今週のアクタージュは“ゲリラ動画”の正しい使い方でした
おはようございます、4時から書き始めたら3時間かかった田中聖斗です。遅筆も良いところです。
今週のアクタージュ 第62話は、二号連続センターカラーですが、中身とちがってエラいポップです。
新巻6巻がいよいよ来週発売。「銀河鉄道の夜」のワンシーンということもあり、ある種地味なジャケットになりました。
それでも面白ければ売れると思います。そこが、このマンガの凄み。
※20.1.7 引用を適正な量にて内容も若干修正しました
(以下ネタバレあり)
scene.62 新宿
今回はいきなり、アキラくんのお母さん(星アリサ)のところに「夜凪はとりあえず大丈夫だ」と報告に来た、事務所の社長で映画監督の黒山墨字。
しかし、そんなのは「イタチごっこ」だと語るアリサ。
自分だってそんなことはやってきて、それでもムリだったから役者を辞めて芸能事務所を作って社長をやってるわけで。
「芝居に溺れた人間はもう止められない」
せめて、自分の所の百城千世子(ももしろちよこ)だけは守らないと・・・息子は役者に溺れてないから大丈夫なんですね、お母さん。そういう所、実にドライで、役者への高いハードルがあるのを匂わせていて良いです。
コレも全部伏線なんでしょう。
アリサに含みのあることを言われた黒山。
彼はあくまでも映画監督。
映画のための役者を育てることに関心があるせいか、夜凪が役者として真っ当な道を歩んでくれるようになれば、一安心です(でもそこが、また落とし穴になるという伏線になっていくと思います)。
今回は頼まれた撮影に向かう電車の中で、夜凪の成長を実感し、これならイケると確信を持ちます。
夜凪を撮りたいためにスカウトして、いろいろ問題を起こしながらも夜凪を成長させることを重視してきた黒山。
それは親心とかそんなんじゃなく、彼の、「いい映画を撮りたい」というまさに彼の欲望のため。
もちろんそれは独りよがりなものではないけれど、彼の考える美意識の高さにそぐう作品を生み出すためには必要な「役者」という大事なパズルのピースであって、そんな彼の、手段を選ばない、彼自身の作品への取り組む姿勢、人生観、このあとの撮影手法にも表れています。
カメラを通して何を伝えるか?
いや、何を訴えて、人々の気持ちを動かすか?
そこに対しての純粋なまでの想いの体現者であり、だからこそ異端者なのが、黒山。
そして今回、それがわかりやすい形で炸裂します。
一行を乗せた電車は、新宿駅に到着。
夜凪はヘッドホン、黒山はイヤホンを付け、同じ曲を再生、そして、アシスタントの雪がカチンコを鳴らし、撮影が開始されます。
ゲリラ撮影!!
芸能モノの作品では、手アカがついた演出と言えばそうなのかもしれません。
でも、ほとんどの作品(打ち切りマンガに多いよ)や、問題になったユーチューバーでのゲリラ動画、ゲリラライブというのは、単に話題作りで目立たせるのが目的として行われ、その映像的価値というものからすると、ある種の異端というか珍味みたいなものでしかないのがほとんどです。
だから、たとえ ウケても暇人にしかウケない。
そこに、深い意味もないし、だからこそ心に何も残らない。
でも、ここまでの流れの中で、役者として深みを増し、人間的にも成長を遂げて「いい役者になった」夜凪景の、その姿を表現する「手段」としてこういった形の撮影になったのです。
これは、異端の映画監督 黒山だからこそできることであり、安易に「ゲリラライブをやってフィーチャーされよう!」という素人考えのバンドが出てくるマンガとか、視聴回数を稼ぐために「面白動画を作ろう」と考えている底の浅いユーチューバーの作品とは、雲泥の差。
アクタージュでは、そこそこ話題にはなるけども、役者としての知名度はまだまだ百城千世子には当然劣る、今の夜凪だからこそ撮る意味があって、でも、千世子と役者としても張り合えるような舞台に立てるんだぞという証明するシーンにもなるわけ。
つまりあくまでも「ゲリラ動画」を使うのは、あくまでもフィクションの中で、夜凪景(と黒山)の魅力を見せるための「演出」ということ。
だから、安易にゲリラ撮影だから「なんてことを!」と騒ぐのもちがうと思うし、そういう意見が出ることを承知で描くから、夜凪の双子の弟妹に「常識」を語らせます。
そう、あかんのはわかっとる。
でも、そこじゃないんだよ、ここでは。
この感性がなければ、人の心を打つ作品なんて作れません。
だからこそ、この作品が、方々で評価されるのです。
黒山が夜凪に出した指示はシンプルなもの。
ミュージックビデオだけど、脚本はナシ。
音楽に合わせて、役者としてそれを表現しろ。
今のオマエなら、それが出来るハズだ!!
というメッセージが隠されています。そうです、役者としての夜凪への信頼です。
つまり、黒山に言葉だけじゃなくて、仕事を通じても、「いい役者になった」ということが認められたわけです。
夜凪は、他の役者志望で一生懸命な子たちとは一線を画す形で、役者としての技術を身につけてきました。
だから、「ダンスを習って表現力を磨く」なんてことはもちろんしていません(そもそも貧乏だしね!)。
でも、だからこそ逆に彼女は、音楽に合わせて、踊ってるんだか何だかわからない「表現」が素直にできる。
その結果、すべてが「作品」になっていく。
それができるのも、夜凪と黒山が想いを共有化しているから。
それを如実に表しているのが、次のシーン。
いい映画はいいチームワークがあってこそなる。
これは映画に限らず、スポーツでもそうでしょう。
「勝ちたい」という想いが共有化されるから、仲が悪かろうが一体になって戦うのです。
映画も、一人で作る映画も撮れますが、あくまでも黒山が夜凪を使って撮りたい映画は、一人で作る映画ではありません。
出てくる役者と一体になって、表現したいモノを追い求める作品なんだと思います。
「いい作品を作りたい」という想いが合わさって、良いものができる。
「儲かるから」で初めて大コケする作品があるのは、そういったことが起こらなかったからでしょう。
夜凪からすると、とりあえずは超一流の監督 黒山と、やっと同じ舞台に立てるようになり、黒山と一緒になって作品作りができるようになった。
それが、このページの最後のコマに現れています。
両者同時に足がつくシーンは、同じ音楽を聴き、それを元にした同じ映像作品を作るもの同士の気持ちがそろった証です。
ダンスの素人のむちゃくちゃな表現と言うこともできるし、マンガだからできる表現とも言えるだろう。
しかしそれは、『恋ダンス』の成功で、猫も杓子も同じようなプロモーションを仕掛ける音楽業界のワンパターンな手法とは一線を画すMVになることを見事に表現した演出だ。
そもそも、歌を聴いて踊るって、もっと人間の根源的な行動ではなかろうか?
CDもiPodもない文化の人たちは、歌や音楽に合わせて自然に踊っている(ハズ)。
それを、世界中を回った黒山が感じていて、だからこそ、この夜凪の行動を「是」とできるのだという、本編では語られることがないけれども、そういった作り手のバックボーンが見えるチョイス。
疾走感のあるメロディなら、疾走したくなる。
カッコイイメロディなら、かっこつけたポーズをとりたくなる。
こういう、根源的な衝動に恐ろしく純粋に従うということは、小手先の表現力ではなく、人間として、自分の中に取り入れたモノを、表現する力が圧倒的にないとただの「痛いヤツ」。
でも夜凪はそうじゃないからこそ、周りの目を引きつけるようになっていきます。そして、黒山はそれをわかって撮っているのです。
だからこそ、バッシングを受けるだけのゲリラ動画撮影とは違い、見る物を「魅了」するのです。
冒頭で、まだまだ先に不安はある伏線も出たけれど、とりあえず明るい材料で突っ走る夜凪たち。
そうやって、少しずつ成長していくんだということを楽しむ事もできる『アクタージュ』。
どんどん面白くなること請け合いなので、これからもフィーチャーしていきます!!
今週の夜凪顔
黒山に大好きな千世子のことをちゃかされてご機嫌ナナメな夜凪。食べてるシーンもそうですが、作者はこの「ぷっくり」がお気に入りか??
(出典 週刊少年ジャンプ2019年21号『アクタージュ』scene61)